2009年9月8日火曜日

「個人の力」とそれを実現させる社会的インフラ

SIG-INDIEの世話人の一人である、芝浦工業大学の小山です。
工科系の大学にいますが、専門は経済学です。よろしくお願いします。

同人・インディーズという、個人もしくは少人数ベースでのゲーム開発についての研究会と関わっています。近年のインターネット環境の整備で急に注目されるようになったこの分野ですが、実は古い歴史を持っています。

私自身、ゲーム産業の発展史を経済学的視点でまとめていく中で、これからの産業のあり方、産学連携のあり方を考えていきたい、と考えています。

今回は、日本でのPC黎明期のインディーズゲーム(という名前すら無かった時期ですが)のことを書いてみます。

ゲーム開発で一攫千金、というとは昔も今も変わらず抱いている「夢」の一つだと思います。

しかし、必死に開発した[夢のたまご」であるゲームも、人々の目にとまり、手にとってもらわないと最初の一歩すら踏み出せません。「夢」を実現させる社会的インフラが必用です。

日本の場合、最初期の社会的インフラは『マイコンBASICマガジン(創刊:1982年7月号)』のようなPC雑誌と、パソコンショップやゲーム企業が行うゲームコンテストでした。しかし、ゲームコンテストは決して順風満帆ではなかったようです。どの業界・どの業種でも、黎明期には有象無象、海千山千の人間がうごめきます。そこでは、詐欺行為などの不正もはびこります。

1982年の日経産業新聞に、そのことを伝える記事がありました。関係箇所を抜粋してみます:



 パソコンマニア向けの雑誌の懸賞募集。対象はゲームソフト、一等賞金は百万円を超す。あるパソコンショップの社長は「また子供のしりをたたいて」とはき捨てるように言った。「まず、一等賞は該当作なし、ということになるだろう」。子供たちからゲームソフトをごっそり集め、目ぼしいものをすべて佳作ということにして当の子供と個別折衝、一つ当たり十万円から二十万円で買い取って、法外な価格の商品にするという手口が多いのだという。
 「子供にとって、十万円というお金は大きい。パソコン一台の購入価格に相当しますからね」と語るのはコンピューター・ジャーナリストの那野比古氏。「ただ現在の大人のやり方には問題がある。正当な報酬を払うのならともかく、子供の射幸心をあおった上で、全くソフトウエアの著作権を認めない買い取り方式で臨むのでは、いずれは子供たちの気持ちを傷つけることになるだろう。こわいのは、そうなった時の子供たちのモラルの荒廃だ」。


こういった中で、正々堂々と賞金を出して優秀な作品を集めたのが、エニックスでした。エニックスのコンテストも最優秀賞の賞金は上の記事と同じ百万円ですが、しっかりと最優秀賞・優勝賞を出し、さらに商品化まで行っています。そのときには印税方式にしており、開発者には相応の利益がいく仕組みになっていました。

過去のネガティブなイメージを払拭し、開かれた明るいイメージを出すためか、第1回のコンテストの入賞者発表回は、1983年(ちょうど、ファミコンの発売年です)の1月16日に、ホテルニューオータニで大々的に開かれました。

驚くべきは、このときの入賞者は現在でも名前を聞く超一流クリエイターが多数含まれていたことです。

最優秀賞は「森田のバトルフィールド」で、制作者は森田和郎さん。当時医大生でした。現在でも、思考型ゲーム制作の第一人者です。

優秀賞は「ドアドア」で、制作者は中村光一さん。当時は高校生です。

入選作品には堀井雄二さんの「ラブマッチ・テニス」の名もあります。


当時、エニックスはゲームソフト事業に参入したばかりでした。後発でコンテスト応募作品を集めづらかったことが,逆にフェアなコンテストによって産業の近代化を進め。「個人がゲームを作り,発表する」回路を社会に確定させることになりました。また、多くの人材をゲーム産業に供給することに成功しました。まさにインフラを作ったのです。

このコンテストで驚くことは、入賞者がとても若いことです。新聞記事(日経新聞、1983年3月26日、「ドキュメント新産業革命――ソフト危機に若き助っ人、マイコン駆使、財なす少年も。」)によると、入賞者十三人の平均年齢は23.6歳で、高校生が4人、大学生も同じく4人だそうです。産業として成熟が進み、徐々に開発者の高齢化が始まっている現状から振り返ると、驚きです。


その後、ほぼ同時期にスタートしたファミコンの方がブームとなったこともあり、PCゲームコンテストのブームは去り、個人ベースのゲームの発表の場は先ほど触れた雑誌とパソケットなどの同人の場へと移っていくことになります。

3 件のコメント:

  1. みんな、早く次を書きましょうよ
    このままだと少し恥ずかしいっすw

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  2. なかなか、最初は難しいのか、恥ずかしいのか、
    もっと、気楽に書き込んでくれたらいいと思うのですが。

    何か、工夫が必要かな? いや、ここは待つべし!

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  3. 研究者から産業界への一方的な発信と違って、コラボレーションには時間がかかるということで。

    関連記事。
    ドラクエ製作者相関図
    http://d.hatena.ne.jp/replicorn/20090911/p1
    大型計算機のユーザ会が果たした役割はAkera, Atsushiが調査していますが、
    http://muse.jhu.edu/login?uri=/journals/technology_and_culture/v042/42.4akera.html
    ゲームコンテストが果たした役割の分析は面白い視点ですね。

     パソコン中心だと扱うゲームシーンが狭くなってしまうので、参考までに「電卓ゲーム」の話を少々。マイコンを買えずにポケコンでプログラミングをやっていた生徒は一定数おり(特に国立の高専とか)、のちのゲーム&ウォッチや学研の電子ブロックにつながるホビーコンピューティングのゆりかごだったと言えます。

    こちらで有名な人が輩出されていないか考えたのですが、黎明期にポケコンゲームの本を出していたのが、のちに科学書ブームの仕掛け人となるジョン・ブロックマンでした。堀井さんもライターから出版界でステップアップしていたらこうなっていたのだろうか...。
    http://math-sci.blog.so-net.ne.jp/2009-01-11-2
    http://www.bk1.jp/product/00334924
    しかしポケコンのゲーム本を対訳で出版して英語の勉強もできるという日本側の売り方はどうかと思う。

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